やりたいことがわからないのは、その夢がまだ成仏してないからじゃない?

何をやったらいいのかわからない。

何をしたいのかわからない。

そういうのは、自分の願望を抑え込むのが癖になってしまった人の言葉だ。

僕を含め、今の世の中ではそういう悩みを抱く人が多いように思う。

インターネットによって大量の情報にアクセスできるようになった現代では、ありとあらゆる素晴らしいものを日々目にすることになる。

インターネットに限らず、街頭の看板、吊り広告、テレビでは10分おきにコマーシャルが打たれる。

そういったものの一つ一つが、僕たち人間が送るべき、素晴らしい人生の物語を語り聞かせてくる。

そのたび僕らは、すごい奴になれる。いい生活ができる。何者かになれる。成功できる。いつか、いつの日かきっと。そう思う。

昔はきっと、比較対象は身の回りの人間関係だった。

そんなにたくさん欲しいものや、やりたいことというのは思いつくだけの情報がなかったんじゃないか。難易度はともかく、人生の満足のハードルはだいぶ低かったのではないかと思う。

それが、テクノロジーの進歩とともに世界は広がり、いつの間にか世界中の人間と人生の充実度を競い合うハメになった。

そうやって、あらゆることに関して散漫になりながら、より良く、もっと良くを求めることになった。

あれも欲しい。これも欲しい。もっと欲しいというやつだ。

世の中に氾濫する膨大な情報に、それに喚起される一時の欲望に埋もれて自分の願望が何かわからなくなってしまう。

願望は細切れにされて、目に映るすべての素晴らしいものに分散してしまう。

そうやって、いつの間にか迷子になった。

だけど、本当はわかっているんじゃないか。

今、そういった消費行動に目がいってしまうのは、本当にやりたいことを抑え込んでしまっているからじゃないかと思う。

本当の願望をないがしろにし、その場の楽しみを優先してきてしまった。

その結果、今から取り組むにはどう考えても遅すぎる、取り返しのつかないタイミングにまでやってきてしまった。

それに気づいている。

だから、本当はやりたい、なりたい、と思っていることがあるにもかかわらず、そのための行動を取らずに目先の楽しさを優先してしまう。

何か、自分には本当にやりたいことがあるんじゃないか。どこかにもっと向いている仕事、天職があるんじゃないか。もっといい方法があるんじゃないか。

情報収集を無限にし続ける。たぶん、それをいくらやっても何も変わることはない。ずっと。

結局、認めたくないだけなんじゃないかと思う。

なりたかった何者かになれないことを。

ゲームセットを。試合終了を。

「あきらめたら、そこで試合終了」

そういう名言もあるが、あきらめなければ勝てるわけじゃない。

勝ち目のない試合でもがき続け、やがて人生が終わる。

むしろ、結果が出ることを恐れて、試合を始めないことのほうが多いかもしれない。

負けたくないから闘わない。勝てる勝負が回ってくるのを待ち続ける。

闘わないことで、まだ終わっていないと、可能性の延命をする。

その可能性の延命措置に必死になってもがいているうちに、他の可能性がどんどん腐っていく。

必要なのは舞台に立つことだ。

その上で結果を受け入れることだ。

可能性の延命など必要ない。

やってみて向いてなければ潔くあきらめる。

いい大人になって、いつまでも夢見てばかりは格好悪い。

今まで必死に守ってきた、実現可能性のない夢を手放すことで、はじめて見えてくる別の可能性だって、きっとあるだろう。
なりたかった何者かにはなれないかもしれないが、今からなれる何者かになればいいのだ。それでいいじゃないか。叶わぬ夢に必要なのは供養だ。

後悔とともに墓まで持って行くのではなく、陽の目を見せてやるのだ。
最後に一度、それが最後かもしれない。
だが、それでいいじゃないか。

無理なら無理ということを身を以て知ればいい。

その上で、負けても尚、舞台に立ち続けるのなら、それはそれで格好いいと僕は思う。

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