先日、学生時猶予分の年金支払を終えた。一歩前進。
終えたというか、先延ばしにしていたものを一括で払っただけだが。
年金の支給年齢が後ろ倒しになるという話もあるが、今まで集金し続けてきてしまった以上、まったくもらえなくなるとは考えづらいし、平均寿命もどんどん延びている。加えて、ぼくは健康意識も結構高い。おそらくそこそこの年齢までは生きているだろう。わからんが。
ということで、年金は満額もらえるようにしておきたかった。
2桁万の支払いは結構しんどかったが、気がかりが一つ減ってよかった。
これでぼくは晴れてきれいな身分になったわけだ。
年金があれば老後もおそらく飢えて死ぬことはないだろう。
だけど、いつも思う。
死ななくても、息をしているだけで生きていると言えるのだろうか。
日本という国は多分いい国だ。世界的に見たら、日本生まれというのはそれだけで大分恵まれた境遇だろう。
だけど、何事にも言えることだが、当然、いいところがあれば、悪いところもある。
その悪いところの一つに、人生が息苦しくなりがちだということがあると思う。
同調圧力が強く、画一的な学校教育で、だいたいみんな同じようなレールの上を歩いて就職までたどり着く。
しかし、就職したら全然手残りしない給料で毎日働く。一生懸命働いても改善の見込みはない。
そうやって日常はどんどんと固定されていく。やれることは限定されていき、なれるものも限られてくる。そうこうしているうちに歳を重ねて可能性は閉じていく。
情報化が進んだ現代では「欲しいもの」や「やりたいこと」や「いきたいところ」そうした理想はぼくたちを飽きさせないように無限に供給される。
だけど、それを実現できるだけのお金や時間を得られるのはごく一部の人だけだ。
ぼくのような凡庸な人間は、そうしたキラキラ輝く素晴らしいものを見せつけられ、それに届かない日常のギャップに苦しみながら日々を過ごしていかなければならないんだろうか?
だとしたら情報化社会は、より責め苦の強くなった新手の地獄みたいだ。
そんなのは嫌だ。
ここでこころが挫ければ、ぼくの人生はもう終わる。息をしているだけで生きているといえるのか?
このままの生活を繰り返していたら「誰かのために働くことに生涯を捧げる代わりに死なずにすむ」というだけの人生になる。
なまじ消費的なストレス発散法と僅かな自由時間が与えられているから飼い殺しにされている実感が湧かないが、実際のところサラリーマンは、まごうことなき現代の奴隷だ。
やりたいことをする時間は限られていて、それをするためにやりたくないことに倍ほども時間を使わなければならないのか?
このままの労働の先に改善の兆しが見えない日々に希望を失い、段々と、生きている、と感じられなくなってきていた。
水槽の中の金魚、籠の中の鳥、それと同じだ。
生殺与奪の権利は誰かに握られ、来る日も来る日も頑張って飼い主の機嫌をうかがっても決してそこから出ることはできない。
それでひと月ごとに給料という餌を与えられて死なないようにしてもらう。
サラリーマン的な生活。
そんなのはごめんだ。
日々よくなっていくことはないのに、日に日に歳を重ねて可能性は閉じていく。
人並みの幸せと引き換えに苦役を強いられる人生にうんざりしていた。
だから、何か少しでも日々が良くなっていくことを、そう信じられることをやりたかった。だから、このブログをはじめた。
生きていくために、別にやりたくもないことをやる。それをどこまで進めていっても死以外の解放は待っていないし、改善の見込みはない。
ぼくは2度転職して現在3社目だ。そして、思う。
日本で暮らしていたら、ほとんどの人には会社勤めで人生が良くなることはない。
仕事が好きでやっている人は別だ。仕事を通じて自己実現、最高じゃないか。
だが、そうでない人はこの日々を続けていても楽になる日はおそらくやってこない。
やりたくないことをやらずに済む日々はやってこない。
それはなぜか?
それがほとんどすべてのサラリーマンの構造的宿命だからだ。
給料はサラリーマンを飼い殺しにするための餌でしか無い。必要経費。
サラリーで暮らすサラリーマンは、会社勤め以外の行動をしなければ永久にそこから抜け出すことはできない。
年金支給開始を心待ちにして、支給が始まったら、その少ない年金で細々と死ぬまで死なないだけの日々を送る。
それが何者にもなれなかったぼくの運命なのか?
そんなの冗談じゃあない。
そうした日々にもささやかな幸せを見いだせというのは立派な考えだが、ぼくにはそうした言葉は綺麗ごとに聞こえる。
行動を選択できる人が言うのなら説得力もあるが、そうせざるを得ない人が言ってもそれは言い訳ではないのか?
それじゃあ、毎月15万で一生暮らすか毎月100万で一生暮らすかどちらか選べと言われたらどちらを選ぶんだ?
ぼくは抜け出してみたい。
労働から解放された世界が見たい。
こどもの頃、生きていると実感していた頃に自転車で走っていてきれいだと思った景色。生かされている今見る景色は違って見える。また、あの頃と同じすがすがしい気持ちでものをみれるようになりたい。
経済的独立。
そんなことできないというやつらに見せつけてやりたい。
大人になったぼくは本当は自由になるための力を身に着けているべきだった。
だけど、ぼくは何もわかっちゃいなかった。
一時の快楽に溺れて、時間を腐らせ、何も建設的な行動を起こさず、心身の健康まで犠牲にしてきた。
それはオナニーだったし、ジャンクフードだったし、酒や煙草だった。流行のファッションだったし、最新のゲームだったし、ブランド物のバッグだったかもしれない。そして、そんなものはすべて便所とゴミ箱に消えた。
だからこそ、今もまだ自由から遠い場所にいる。
だけど、ようやくスタート地点に帰ってきたように思う。
時の経過とともに取り返しのつかなくなったことはたくさんある。
それでもぼくは、今からでもより良い人生を取りに行く。
変化がない日々に飽きるのは当然のことだ。変化がない日々は退屈に決まっている。
日々が退屈だと思うのは、同じ行動を繰り返しているからだ。
前進しろ。
ぼくには、まだまだできることがあるはずだ。
そう思えばこそ、自由になれるという希望があるからこそ、人は生きていける。
希望があるからこそ、この日々にも意味が出てくる。
さあ、初心を忘れるな、挫けるな、意味のある日々を過ごすんだ。
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