映画を見るのが好きだった

映画を見るのが好きだった。

まあ、今も好きなんだが、昔とは見るときの気持ちが違う気がする。

昔は、ブラック企業勤務や失恋など、つらい現実からの逃避として映画を見ていた。

物語に没入し、ほんのひと時現実を忘れ、そして見終わるとともに現実に引き戻される。

だけど、最近はなんというか、飽きてきた。

そうした受動的なものに。

映画を見て、その中でどんなにすばらしい展開や結末があっても、ぼくの現実は一切変わらない。

そうした他人の物語を消費することに飽きた。

映画を見れば、その間ぼくたちは他人になって物語の中で他人の人生を生きることができる。

退屈しているぼくたちを飽きさせないように、そうしたコンテンツは無限に供給される。

それを見て、一時現実を忘れて、また日常に戻っていく。

それは、まるで痛みを麻酔でごまかして生きていくみたいだと思う。

本当は痛みの原因を取り除くことを考えなければずっとそのままなのに、原因を放置して対処療法で誤魔化す。

たぶん、だいたいの人はそうやって人生をやり過ごして生きていく。

それはそれでそこそこ楽しい。

だけど、ぼくは飽きた。

他人の物語の続きを見るよりも、自分の物語を先に進めたい。

問題を解決して、現実を快適なものにしたい。

かつてのぼくはメンタルもからだも不健康で参っていた。

不健康で弱っていると、些細な刺激にも敏感に反応するようになる。

そうした繊細さに感性というものは現れるような気がする。

弱々しいとエモくなるということだ。

その頃は、映画とかもすごく面白かったし、感動した。そう考えればそれはそれで悪くない。芸術家の人が神経質だったりしてすぐ死んでしまうのはそういうことなのかもしれない。(偏見)

今、以前ほど物語に入り込めない自分がいる。

映画は今も好きだけど、健全な心身を取り戻したことで現実に意識が向き、昔みたいには楽しめなくなったように思う。

でも、それでよかった。

弱いと逃避のために物語の世界に没入して、登場人物に自分を投影して現実と物語を混同して、現実の問題を誤魔化すようになる。

本気出せばできるとか思っているのは、結局、自分の弱さを誤魔化して挑戦を避けているだけだ。

悲劇の主人公ぶるのも、天才だと思い込むのも、ポジティブだろうがネガティブだろうが、現実の行動を妨げるような思考を持っている奴は、まさしくかつてのぼくは、現実では圧倒的弱者だ。搾取される側。虐げられる側。

結局、そこには現実を見ることを避けて行動しない自分を正当化するという共通の目的があった。

やらなければ変わらないのに、現実と物語を混同して自分にはものすごい可能性があると思い込むことで何もしない。

そうしているうちにあったはずの可能性までもが閉じていく。

ぼくたちは他人の物語を信じさせられて、自分もいつかはそうなれると思い込まされてきた。

アニメもドラマも映画も、ロックスターも歌姫もアイドルも、いつか自分もそうなれるかもしれないと希望を与えてくれる。

だけど所詮、それは他人の物語だ。

ぼくたちがなれるのは自分だけだ。

他人の物語に自分を投影しても意味はない。

それどころか、そうやって浸っている間にあらゆることが終わっていく。

現実で充実している人たちは、たぶんだけど物語を信仰していないんじゃないか。つまり、現実主義じゃないかと思う。

世界のとらえ方が違う。

物語を信仰する人は物語のフィルターを通して現実を認識する。

そこに、あるはずのない可能性を見出してみたり、(すごい主人公であるはずの)自分にこんな不愉快な出来事が起こるはずがない。世の中がおかしいと思ってみたり。現実を歪めてみている。

それに対して、現実主義の人は現実を歪めることなく、あるがままに見る。

今を充実させている人たちがリア充で、非リアと呼ばれる人は未来の可能性の世界に生きている。

結局、今なにかをした人だけが実績をつくり、能力を身につけて、かつて未来だった今も充実させる。

可能性を夢見るばかりで今なにもしなかった人は、何も変わらないまま、かつて夢見た未来だった今を迎えることになる。

リア充と非リアの現実での充実度の違いはそうして現れるのではないだろうか。そんな風に思った。

リア充はその名の通りリアル(現実)を充実させている人たちだ。その姿勢は現実主義というふうに考えることもできる。

ただ、リア充の中にも本当に現実を見て考え行動している人と、世の中に流布されている消費的な物語に毒されて刹那的な快楽を追い続けているだけの人がいる。後者はどこかで人生に行き詰まるだろう。それは結局、他人の物語を生きて踊らされているからだ。

あらゆることが白黒二元論で語れないのと同様に物語主義か現実主義かも、0か100かではなく、グラデーションがある。

現実主義に近づけば近づくほど人生は、他人の物語から自分の物語へと回帰する。

自分の物語に回帰するということは、人生のコントロールをその分取り戻しているということだと思う。

自分の人生のコントロールを取り戻す。

そうなって初めて人生は楽しくなってくるものなのかもしれない。

他人の物語を信仰するのを辞め、自分の物語を生きる。

 

それでは、また!

ミギマワル(@migimawaru

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