ほんの僅かの希望が人生に新しい風を吹き込む

どうして勤め人の人生は息苦しいのだろう?

毎日毎日、別に行きたくもない仕事に決められた時間に行くため、眠い目をこすって朝早く起きる。

そうしてやりたくもないことをやって給料をもらう。

給料日に口座に振り込まれる給料は生活費として消え、手元にはたいして残らない。

この日々の先に解放はあるのだろうか?

死ぬまでこの日々を続けるのだろうか?

 

今までは勤め人にとって定年がゴールだった。

定年まで走りきれば退職金と年金で死ぬまで食うに困らない。

そう信じられるからこそ、かろうじて生きていられた。

しかし、終身雇用は崩壊し、年金支給年齢は引き上げられるのに定年は早められる。そもそも年金など、ぼくらが70歳になった時にもらえるのかどうかもわからない。

働いても働いても生活の改善は期待できない。それは一緒に働いている年長の役職者を見ても明らかだ。

誰も希望など抱いて生きているようには見えない。

肩書があろうが無かろうが同じだ。

出世競争から外れ、役職らしい役職もなく、日々進歩していく技術に置き去りになり、若年の社員と比べられ厳しい戦いを強いられながら、今所属している組織から排斥される恐怖に怯え、しがみついている人が多くいるように思う。

じゃあ、役職がついたら安心だろうか?給料が上がって生活は楽になるだろうか?

そんなこともない。同じだ。

役職が上がれば求められることも増える。

多少給料が増えても、それにも増して増加したストレスを解消するためにそれは使われる。

家庭を持てば結局生活コストも上がる。とても明日の自由など夢見れない。それが多くの人にとっての現実だと思う。

仕事が楽しい、やりたいことをやっている、給料が良くて生活は楽だよ、仕事なんてやらなくてもいいけどやりたいからやってる、いつでも辞められる。そんなふうに思えるのなら幸福なことだと思う。

ただ、そう思える人がどのくらいいるのだろう?

”必要”なものは日々増えていく。TVを見れば、映画を見れば、雑誌を開けば、ネットを見れば、電車に乗っても、バスに乗っても、どこもかしこも”必要”なものを伝えてくる宣伝で溢れている。

今度は、そうやって手に入れた必要なものを維持するためにお金は使われる。

それの繰り返しだ。延々と繰り返される。

生活は便利になって、世の中は良くなっているはずなのに、ぼくたちはどんどん息苦しくなっている。

いまやほんの一時の息継ぎのために必死に金を稼ぎ、大金を払う。

休日にだけ息をする。1週間分の酸素を積み込んで、次にやってくる1週間に備える。

休日の終わりを憂鬱に感じ、そうした日々の繰り返しの先に解放など見えるわけもなく、やがて自由への羨望を持っていることが苦しくなって、そんなこと考えなくなる。

未来のことなど考えなくなって、またやってくる今日をやり過ごすだけになる。そうやって、何も考えなくなる。感じなくなる。

日々テレビで垂れ流される他人の人生にいいだの悪いだの、可哀想だのと批評するばかりになる。自分の人生などどこにもない。

今日を生きるだけの奴隷になる。

人生って、そういうものなのか?

何も考えていないと、目先の快楽に釣られて時間と金が消費される。

みんなに劣らないように、みんなと同じようなことをする。

それを繰り返しているうちに、そうした”みんな”は仲良く嵌め込まれる。

どこに?

人生のドツボに。どん詰まり。終身労働の身分に。

ぼくにはそう思えてならない。

 

あの日「規則に従って真面目に働いていれば、お前も昇進できる」そういった課長はいつも胃が痛くて具合が悪そうだった。

胃を痛めているからか口臭もきつかった。

住宅ローンを抱えているからそう簡単に辞めたくても辞められない。
ローンで家を買ってしまってすぐ職場が変わってしまい、毎朝始発で3時間ちかくかけて通勤している人もいた。

会社を辞められないから立場を気にして言いたいことも言えない。

理不尽を言われても受け入れる。

ぼくは全然、そんなふうになりたくないよ。

真面目にやった結果行き着くのがそんなところだと思うと気が滅入った。

今、なんのために働いているのか、そもそも今やっていることはそんな地獄みたいなところに行き着くための行いなのだと思うとわけが分からなかった。

希望が持てない日々だ。そりゃあ息苦しくなるに決まっている。

給料の全く支払われない早朝出勤終電帰りの生活にも辟易していた。

ブラック労働から逃れるために転職しても、低賃金で昇給も無く、未来のことなんてなんにも計画できない日々の中で、ずっと解決策を探し、考え続けてきた。

ぼくが就職して働き始めてもう10年くらい経つだろうか?

結局、2度転職してようやく人並みの生活になったと思う。

そして、あの頃に比べて社会の雰囲気には開放感が少し出てきたように思う。

ただそれは、国も会社も、そこに生きる人の生活なんて保障しきれなくなってきたからなんだろう。

奴隷の身分に甘んじて考えることを辞めれば必要以上の苦痛も感じなくて済む。

おんぶにだっこで揺り籠から墓場まで生涯を保証されていたのかもしれない。だけど、それももう終わりのようだ。

これからは自分で考えて生き残っていかなければ、自分の思い通りに行かないことばかりだ。誰かの都合のいいように使われるばかりだ。

そして、行きたくもないところまで押し流されていくことになるように思う。

というか、書きながら思ったが、とっくの昔からずっと同じだ。今までもたぶんそうだった。何も変わっていない。
変わったのは、そうした事実が隠しきれなくなったということだけだ。

ただ、状況が開示された以上、都合の悪い結末を他人のせいにはできないということだ。ぼくらは自分の人生の責任を背負っている。

今までだって背負っていたはずだったけれど、うまく行かなかったら最後には誰かのせいにして言い訳できた。

ただ、それはもうできない。

隠されなくなった反面、労働は改善され残業は規制され責め苦は緩やかなものになった。だけどそれは、「刑務を軽くするから不信を持たず、おとなしく奴隷でいてくれ」ってことのように思う。

ぼくが勤め人に絶望したあの頃から年月が流れた。

今もまだ勤め人をやってはいるけれど、ようやく今、ぼくは希望が抱ける。まだ、ほんの小さくぼんやりとしたものだけれど。

それでも今日よりも明日は良くなる。そう信じられることはこれほどまでに力強い。

ようやくぼくは息ができる。

ようやくぼくは息継ぎのための人生から、解放のための人生を歩んでいると感じられる。堂々巡りでなく前進していると思える。

今日よりも明日は良くなると信じられる。

ほんの僅かの希望が必要なんだ。

自分の人生を生きていくためにはそれが必要だ。

小さくてもいい「自分には人生を変えていくことができる」という実感が必要なんだ。

それはなんだっていい。

筋トレによる肉体の変化でも、食事改善による体調の変化でも、副業によるちょっとした収入でも。

「自分には今日よりも明日を良くすることができる」

することがなんであっても、その確信が人生に新しい風を吹き込む。

そうしてようやく息苦しさは小さくなるようだ。

今、人生が息苦しいのなら、すぐに始めなければならない。

嵌め込まれる前に。

窒息する前に。

ぼくたちが過ごさなければならないのは、時間が自分の味方になるような過ごし方。時計回りの前進だ。

今日よりも明日は良くなる。そんな過ごし方だ。

そして目指すは、自由人の身分だ。居るところも、言うことも、やることも自分で選べる。そんな生き方だ。

買い戻すんだ。自分の人生を。

さあ、はじめよう。時計回りの前進を。

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