今日は自分で作り上げたルールに縛られて、身動きが取れなくなっていないか、という話を書く。
ルールは何のためにある
ルールというのは本来、様々な考えを持つ人間同士がお互いの安全を保証するためにある。
それは、お互いの利益になるように設計されているはずだ。
ルールが無ければ、そこは、北斗の拳の世界のように、何でもありの無法地帯になる。
その中では建設的な行動が取れなくなってしまう。何かを作っても、それが仕上がったところで誰かに奪われるのでは、まともな人間なら作ることを止めてしまうだろう。誰かから仕上がったものを奪ったほうが労力が少なく、合理的だからだ。
それでは、あらゆる発展が無くなってしまう。
そこで、成果を互いに侵害しないようにルールというものができた。
これによって誰もが建設的な振る舞いを、安心してすることができるようになった。
そのルールには意味があるのか
ルールというのは、そのルールを守る人間に利益をもたらすものであるはずだ。
だが、現実、ルールは不用意に増えがちで、その中には、役に立つものもあれば、何の役にも立たないものもある。
例えば、組織において、場当たり的な対処として設定されたルール。こういったものは定期的に見直さないと、形骸化していて、もはや何のためにそのルールが存在しているのかもわからないということもある。それは、業務を複雑にして効率を下げるだけで何の役にもたっていない。
しかし、本当に危険なのは、自分の中に設定されたルールだ。
自縄自縛の罠
知識や経験に基づき、新しいルールが自分の中に形成されていく。
何かをして失敗したからといって、「これは危険だ。もうしないようにしよう。」と安直にルールを設定していいのだろうか。もしかしたら、失敗した原因を追求して改善すれば、成功させられないだろうか。
漫画やドラマを見て、憧れの人物像を抱き、彼等の行動を真似て行動を制限していないだろうか。それは、現実において本当に正しい振る舞いなのだろうか。理想と現実は違う。漫画やドラマは幻想だ。それを現実と混同してはいけない。
こうした、ルールだと意識せずに、自分で設定したルールが増えれば増えるほどに、選択肢は狭まり、発想は小さくなり、身動きが取れなくなってくる。
自分のルールを見直そう
恥ずかしい話だが、かつての僕は、自分のことを漫画の主人公や映画の登場人物かのように、特別な存在なのだと思って生きていた。
実際は、非モテで女性からは相手にされずに、仕事もできない、金もないというのに、幻想の世界に生きて現実を見ていなかった。現実逃避をしていた。
何もできない口だけ野郎にもかかわらず、幻想を自分に投影して、自分の行動を制限していた。
果たして、漫画の登場人物の行動や選択が、現実の自分の役に立っているのだろうか。よく考えてみて欲しい。
綺麗事を並べて、格好いい理想論を述べて、自分がそのとおりに行動していたとして、それは現実で役に立っているのだろうか。
共有しないルールはハンデにしかならない
行動を制限するようなルールは、誰かと共有していなければ意味がない。
自分の中に、行動を制限するようなルールがあったとしよう。
あなたがそのルールを守ってゲームをプレイしていたとしても、そのことを知らない相手からしたら、そんなことは関係ない。あなたが勝手にハンデを背負って闘っているだけだ。
ボクシングを例に考えてみよう。
試合中に、相手が腕を骨折した。あなたは、相手の折れた腕を攻撃すれば楽に勝てる。
しかし、あなたはそれを卑怯だと感じて、折れた腕を攻撃しないことにした。
試合は進み、今度はあなたが腕を骨折した。相手はあなたの折れた腕を執拗に攻撃して勝利した。
これは卑怯なのだろうか。
この例の場合では、ルールが事実としてわかりやすく表れているので、見る人によってはそれを卑怯だとする見方もあるだろう。しかし、勘違いしないでほしいのだが、ボクシングのルールでは、それは禁止されていないし、そもそも本来の目的は勝負に勝つことだということだ。骨折した腕を攻撃しないというルールを決めたのはあなたの勝手であり、相手はそのルールを共有していない。相手と共有しないルールは呪縛でしかない。更に言うのなら、目的が勝つことであるにも関わらず、観念にこだわって勝つチャンスを活かさなかった時点で、あなたは目的さえも見失っている。
行動を制限するルールにも種類があり、自分に不利に働く行動をしないようにするルールは戒めとして機能するが、自分に一方的に不利に働くルールというのは呪縛だ。自分で目的達成の難易度を上げている。
あなたが目的の達成や結果にこだわらず、美学や観念を追い求めるタイプではないのなら、目的の達成に役立たないルールなど持たないことをオススメする。
くだらないルールや美学などを捨てたその日から、あらゆることの難易度が劇的に下がる。
行動の選択肢も爆発的に増える。今まで自分で封じてきた手を使えるようになる。
終わりに
この記事は、ルールを無視しろと言っているのではない。
目的があるなら、その達成の難易度を無駄に上げるな、目的達成の役に立たないルールを持つなという話だ。
美学も観念も、何事かを成してから持てばいい。
何事も成していない人間の語る美学になど、欠片ほどの価値も無い。
それは、ただの言い訳だ。
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