こんにちは
ミギマワルです(@migimawaru)
お金をたくさん稼いでいても、そうでなくても、桁違いに収入が違わなければ、ある程度の年齢ごとに、みんなだいたい同じような行動を取る。
はじめはほとんどみんな同じ。
受験して進学。
就職して働く。
できる人は学生時代に様々なことにトライするだろうけど、普通の人にとっては学生まではチュートリアルだ。
そしてチュートリアルの成績に応じてスタート時のコースが違う。優良企業、ブラック企業。
そうした違いで、貰える給料、福利厚生、昇給など差異が生まれる。
ただ、その差異も生活に困窮する水準でない限り、人生においてそれほど大きな違いは生まないのではないかと思う。せいぜい「ちょっといい暮らし」かそうでないかくらいのものだろう。
生活レベルの違いはあれど、人のやることは基本的には同じで、「車」「結婚」「家」「子ども」を獲得することが、この人生ゲームの基本目標のように思う。まあ、価値観は人それぞれだから別にこれに沿う必要はないけれど。
だから、「ちょっといい暮らし」かどうかの違いは、持つ物の質が変わるというだけのことなのだと思う。
一流企業勤めでなかったら、高級車ではなく大衆車にすればいい。それでも高価だというのなら中古の型落ちにすればいい。そういう話だ。
それだけど、ぼくも含めてほとんどの人が、もっとお金が欲しいと考えるのは、つまるところ広告に毒されて「美しい生活」に憧れを持っているからに過ぎない。
そうした洗脳が無ければ、ほとんどのモノはかなり安く買うことができるし、「最新の高級車」でないことに不満など抱かないのではないか。
だけど最近、だんだんとみんなウンザリしているような気がする。それは、ぼく自身の気持ちを周囲に拡大して反映しているに過ぎないのかもしれないけれど。
「最新の高級車」が必死こいて買った翌年には「型落ちの中古車」になる。それを延々と繰り返すことに人生の意味なんてあるようには到底思えない。
永久によりよい物を追い求めて物欲をエンジンに走り続けることはできない。
もう、誰もが「ひと通りの物」を持っている。みんな足りている。これ以上、物は必要ない。
「縛られない自由」
「好きなことをやる時間」
「ストレスのない快適な暮らし」
「コミュニティの人間関係」
そうしたカタチの無いものにこそ、価値がある時代だと感じる。
持ち物の良し悪しを比べて豊かだ貧しいだとかマジでどうでもいい。
ある程度の資本を得て、勤め人を卒業することの意義は、カタチの無いものを手に入れられるようになることで、持っている資本が大きくなればなるほど時間と行動の制約は減り、カタチの無いものを大事にできる。
ぼくも、先に挙げたようなカタチの無いものを味わえるようになりたい。
その為にお金を稼ぐのだ。
お金は、すぐに古くなる物を、最新の物を買い揃えるためにあるのではない。
これから先、物欲に踊らされるようや考えを持っている人たちは、だんだんと苦しくなっていくのではなかろうか。
今日もメモみたいな記事になってしまったが、それでも前進は続いていく。
では、また!
ミギマワル(@migimawaru)
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